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今、ここに生きる

阪神淡路大震災より31年目の今日。5時頃に起きて、震災発生時刻の5時46分に黙禱した。毎年書いていることで、何度も繰り返して書いているのはわかっているけど、書かずにはいられないので、今日も書く。この日は、私にとって一番大切な日の一つだ。

1995年の私は、一浪状態の大学受験生で、ひたすら2月に予定されていた私大入試に向けて勉強をしていた。地震発生時は、母と私、10歳下の弟と過ごしていた。家財道具が倒れ、母と弟は起き上がれない状態であったが、倒れたタンスをどければ動ける状態であった。私の住んでいたところは電気はすぐに復旧したので、テレビをつけると、NHKは徳島県で被害があったと状況を伝えていた。これはおかしい、まだ情報が入っていないだけだと思っていると、どんどん情報が変わり、火災等の情報も伝えられるようになった。マンションのドアを開けると、目の前の湾岸高速道路の一部が落下していた。

一日目は家族で過ごし、私は二日目からは吹田市の友人宅に避難させてもらい、受験勉強をさせてもらうことになった。3週間ほど衣食住の面倒を見てもらい、おかげで無事に第一志望の大学に合格することができた。困ったときに母がすぐに知り合いに頼んでくれたおかげで、私は勉強に集中することができたのだった。しかも、親せきなどではなく、特に親しい友人家族というわけでもなかったのに。今から考えれば当時母は40代半ばで、よくあのような判断をしたものだと思う。小学生の弟と二人で、水もガスも止まった中でがんばったのだろう。当時の私は自分に集中しすぎて、周りが見えていなかった。突然の申出に快く答えてくれた友人家族に本当に感謝である。あの出来事がなければ、今の私はない。

大学合格が決まってから、友人がかかわっていた震災救援ワークキャンプに参加した。あちこちから大学生が駆けつけてくれて、さまざまなボランティア活動をしてくれた。報道では、「ボランティア元年」といわれていて、そのながれでNPO促進法も成立し、市民活動に法的根拠が与えられることになった。私も、仲間とともに働く喜びと、自分が少しでも誰かのお役に立てることがうれしかった。

大学に入り、ハンセン病療養施設に行ったり、韓国でハンセン病快復者の村で向こうの学生と道路舗装などのワークキャンプを行った。別に、ボランティアをしたかったわけではなく、震災救援キャンプで知り合った仲間たちとともに活動したかっただけなのだ。しかし、ハンセン病の歴史と、国家がどのようにそれを扱い、周りの人々がどう接してきたかを学び、知ることができたことはとても大きかった。

司法試験の勉強もずっと続けたが、こちらは残念ながらものにならず。自分が生きていることに意味なんてないと青臭いことを考えていたが、ただ単に能力がなかっただけである。

縁あって鴨川に来てからは、活動の幅がだんだんと広がるようになってきた。家族ができた。仕事では、都市農村交流、衆議院議員公設秘書、塾講師、農業の開始、農家民泊、県議秘書、そして行政書士に。

毎年この日が来ると、自分が何とか生きてこれたことに感謝する。震災当時を伝えるテレビや新聞は、やっぱり今でも見れなくて、非常に大きな被害を受けたわけでもないのに、今日も涙が出てくる。私のようなものでも忘れないのだから、非常な体験をされた方などはもっとつらいだろうと思うのだ。報道が少なくなってくることは、やむを得ない。当事者ではないのだから。

でも、東日本大震災のときに被災地を訪れた際も「忘れないでね」「私たちもあなたたちと同じように震災が起こるまでは、ごく普通の日常生活をしていたんだよ」と言われたことも忘れない。

この思いを、誰かに語ることもなかなかできない。同じような体験をした方としか、話ができないのではないか。

でも、今日も生きている。きっと明日も。やれることを全力でやらないと、生き残った意味がない。

写真は、3年前の初日の出である。10代のころに海伊勢湾から昇る日の出を見て、それからずっと海で見る日の出が好きだ。

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